「――・・・・・・じゃあ、あの、・・・あのね・・・・・・頭、撫でて・・・・・・?」
「――・・・・・・ はぁ・・・?」
ひどく怪訝そうに唸った彼は、それと同時に心中で「何故そうなる」とツッコミを入れた。
目的地をわずか数メートル先の目前にしながらも、真選組鬼の副長、土方十四郎は足を止める。
引き結んだ口端にぽつりと煙草の焔を灯す表情の薄い面立ちが、隊服のスカートをもじもじと弄るを上から下まで、呆れた目つきで眺め下ろした。
繁華街の深夜巡回を終えた帰りに佇む路上は、屯所近くのコンビニ前だ。
切れかけた煙草の補充のために入ろうとしている店の周囲は、清潔感や健全さを空々しいまでに強調してくる蛍光灯の白色がやけにまぶしい。
宵闇に慣れたこの時間帯には目が眩むようなその明るさは、透けるように肌が白い女の赤らみはじめた横顔をくっきりと映し出していた。
黙りこくった男の眼光鋭い怪訝顔に見つめられ、どんどん焦りが増してきたらしい。はじりっと後ずさる。
さらにじりじりと後退し、一体何が言いたいのか、あぅあぅぅ、と意味不明に口走っては気まずそうに顔を火照らせまた後退。
詰め寄ろうとする土方が僅かに一歩踏み出せば、「いやぁぁ!こっちに来ないでえぇぇ!」と言わんばかりにぶんぶんと腕を振り回しての全面拒否を示してくる。
――必死すぎて怒りも失せるが――何だこの扱いは。夜道に現れた変質者か、俺は。
先日晴れて恋人となったはずの女の、相変わらずな突拍子の無さで飛び出る奇行。
事ある毎に飛び出すこれにも徐々に慣れてはきたものの、土方は呆れと諦めが入り混じった複雑そうな顔になる。
男女二人連れの客が訪れた目の前のコンビニで、自動ドアが音も無く開く。
「いらっしゃいませー」とこんな時間帯でもやけに元気な店員の声が、店で流れる流行りの歌が、静けさと冷気が暗闇に漂う深夜の路上へ流れ出してくる。
醒めきった視線を光に満ちた店へと流すと、彼は細い煙を昇らせる煙草を指に挟んで口から引き抜く。
はーっ、と長めに紫煙を吐き出し、「・・・ったく、遣り辛れぇ奴だな」と面倒そうにつぶやいた。
「おい、一体何がしてえんだてめえは。つーか何だ、撫でろってのは」
「〜〜いっ、いいの、もういいですからっ、今の、なし!なかったことにしてくださいぃ!っっそそそそうですよねダメですよねっ、ダメならいいの・・・!」
「いや、駄目も何も」
――ダメ出し以前に訳が解らねぇ。
今の話の流れのどこをどう辿ったら、「頭を撫でろ」に繋がるってえんだ?
そう問いかけようとしたのだが、口を開きかけた彼の言葉は「でっ、ですよねっっ!」と叫んだ女のうわずった声で遮られ、
「〜〜で・・・ですよねダメですよねっ、そうですよねっっ。でも、ぁあぁあああのっ、あのね・・・!」
「だからてめえは人の話聞を聞けっつってんだろコルあぁぁ。つーかそこから動くな、逃げんじゃねえ」
「〜〜〜っ!」
びしりと土方が言い放てば、びくうぅっっ、と大袈裟なまでに震え上がってが止まる。「こっち来い」と指先で手招きをする仏頂面の男と、おそるおそるで視線を合わせた。
彼女が「屯所の鬼」と呼ばれる男の恋人となり、女性には基本的に素っ気ないはずの彼に何かと構われ、甘やかされがちな生活を送るようになってしばらく経つ。
しかし「副長直属の部下」として二年近くに渡って躾けられてきたには、土方に命令されると何を置いても最高速度で実行するという、まるで飼い主に「待て」「お座り」「お手」を言い渡された飼い犬のような、何とも情けない条件反射が染みついていた。
仕事上は変わらず厳しいこの鬼上司の鋭い怒号や命令口調による鋼の身体拘束力ときたら、今でも効果は絶大なのだ。
こうしてびしりと言い放たれれば、彼女の身体は一も二もなく土方の意に従ってしまう。
そんな彼女を本人以上に知り抜いているこの男は、「待て」を実行中の「飼い犬」を逃がさないよう、わざと凄味を利かせて睨む。
冷淡そうな無表情さを崩すことなく、まるで氷像のようにかちんと凍りついた女に近寄っていった。
「つーか、どーいうこった。何がどうなって頭ぁ撫でろだ?俺の話聞いてねえだろ」
「・・・聞いてた、聞いてましたよっ。い・・・言ったじゃないですかぁ土方さん。何でも欲しいもの言ってみろ、って・・・!」
「あぁ。そりゃあ言ったが」
怪訝そうに目元を細めた土方は、指先程度に縮んだ煙草をぱしりと地面に投げ捨てる。
彼の背後を――こんな時間でもちらほらと現れる客の出入りで何度か開閉を繰り返していた、コンビニの自動ドアを肩越しに指した。
「おい。あれは何だ」
「・・・・・・コンビニ」
「そのコンビニ前で何か欲しいもんはあるか、何でも言ってみろと尋ねられたら、大方の奴ぁコンビニに売ってそうなもんを買って貰えると思うんじゃねえか」
「・・・・・・だって。・・・・・・・・・・・・・・・・・・疲れてたんだもん・・・」
「はぁ?」
何だそりゃ。何故ここで「疲れてたんだもん」が飛び出してくる。
意味不明さに眉間を顰め、彼は話の先を促そうとした。ところがは赤くなった顔をふいっと背け、もごもごともじもじと「だって、だって」を口走るばかり。
その挙句に「っっあのっあたしっ用事思い出しちゃって!っっさささ先に帰りますねっお疲れさまでしたああぁっっ」
などと明らかに嘘だろうことを口走り、局内の男共でも敵わなさそうなキレのいいダッシュで駆け出そうとしたが、
「おいィィィィざっけんな。んな夜更けに、どこに用事だ」
こめかみにびしっと青筋を浮かべた土方が、すかさず首根を掴んで止める。
ぐいっ、と犬の子でも捕まえるように引き戻せば、は「あぅぅぅ」と情けない声で悲鳴を上げた。
ずるずると地面を擦って引き寄せた女の顔を後ろから覗き込んでみると、彼女は眉を八の字に下げた泣きべそ顔でうつむいている。
「いい加減に白状しやがれ」と彼が脅すと、胸の前で両手の指をくねくねと絡ませ弄りながら、言いにくそうに口を開いて。
「・・・・・・ここ最近、忙しかったじゃないですかぁ」
「・・・?ああ」
そういやぁそうだったか、と土方は視線を斜め上に向けて考え込む。
確かに最近は出動も多く、何かと気が抜けない日々が続いていた。
事件が無ければ暇になるかというとそうもいかず、屯所に籠りきりで溜まった雑事や所用に追われ。
今日は今日で警察庁での定例会議に朝から出席、その後は延々と外回りが続き、ほぼそれだけで丸一日が潰れたようなもんだったが。
「今日は本庁で会議もあったし、普段より緊張すること多くて・・・。
だから、よーやくお仕事終わって気が緩んでたっていうか、頭がぼーっとしちゃってて・・・」
「・・・・・・」
――そういやぁ、こいつを最後に休ませたのは、いつだったか。
無理をさせたか、と土方はわずかに表情を曇らせる。一年中仕事漬けでも平気な上司に合わせようとしていたのだろう。
土方が記憶している限り、はここ半月近く休みを取っていない。
自分から「休みが欲しい」とも言わなかったし、「疲れた」などと口にすることもなかった。
普段通りに明るく笑って屯所中を和ませつつ、彼の補佐役を務めていた――
「だから。だから、そ、想像してたの・・・っ。こんな時に・・・ちょっと疲れてる時に、一番誉めてほしいひとに「よくやった」って頭撫でてもらえたら、・・・・・・すごく嬉しいだろうなぁって・・・」
それだけで疲れも吹き飛んじゃうかなぁ、って。
深くうつむき両手で口許を覆った彼女の頬が、しなやかに流れる髪の合間からほんの少しだけ覗いている。
その頬は火が点いたかのように赤く熟れており、耳や首筋まで色づいていた。
――何だそりゃあ。たったそれだけを強請るのに、何をこいつは――
困惑を浮かべた目で瞬きもなく彼女をじっと見つめるうちに、胸が奥から熱くなってくる。
「その程度の事を遠慮する必要がどこにある」
そう叱りたいような歯痒さもあった。
だが、どこかこそばゆいそんな歯痒さも、うつむくを見つめるうちに彼の頭から消し飛んでしまった。
何とも言えない気分にさせられ、土方は彼女の肩を引く。
は下ろした長い髪を隊服の肩に滑らせながら振り返り、恥ずかしさを我慢しているかのように唇を噛んだ。
(こんな甘えたことを言って、土方さんに嫌われちゃったらどうしよう。)
そんなことを心配していそうな表情豊かで大きな瞳は、うっすらと滲んだ涙を纏って輝いていた。
無言のうちにも縋るような色を浮かべて訴えてくるがいつも以上に可愛く見えて、土方は微かに息を呑む。
潤んだ瞳から視線を逸らせず時間も忘れて見惚れるうちに、ごくりと大きく喉が鳴った。
「・・・そんなときに土方さんが「何か欲しいものあるか」なんて言うから。だから、思ったことをそのまま、ぽろっと・・・・・・、
――っっ!?っゃ、ぇっっ、な、なにっ、〜〜〜ひっ、土方さ、っっ!?」
いきなりすぎる男の行動での頭は真っ白になり、思考が完全にストップする。
後ろから伸びてきた男の腕に囲われて、腰を抱いた手にそのまま後ろへ引っ張られたのだ。
ぼす、と背中から土方の胸に倒れ込んだ途端、逞しい胸板が背中にぴったり密着するほどに抱きしめられる。
むせ返りそうな煙草の匂い。高めの体温。その両方が彼女を夜の冷気から護るかのように包み込み、肩を羽交い絞めしていた土方の手がゆっくりと動く。
ほんのり色づいた首筋も、熱を持った頬も、髪に隠れた耳のあたりも、硬くて熱い掌で、まるで肌触りでも確かめているような入念さで撫でられた。
最後に耳たぶの端に唇を落とされ、絶句したまま固まっていた彼女の顔に、ぼんっ、っと一気に火が点る。あわあわと口籠り、それでも後ろを振り向こうとしたが――
「・・・・・・だからてめえは遣り辛れぇってんだ」
「〜〜はぁ!?っっな、なんですかそれぇ、やりづらいってあたしのどこが・・・・・ってややゃ、やめてえぇぇ!」
目の前のコンビニどころかこの界隈すべてに響いていそうな甲高い絶叫はあっさりと無視、苦笑いした土方は恥ずかしがって暴れる女を抑え込む。
泣きそうな声で「ふぇえええ・・・!離してぇぇ土方さんんん!」と訴えられても、硬い隊服の上からでも充分に柔らかいの肢体を問答無用で抱きしめた。
「〜〜〜っな、何でこんなところで・・・!離してくださいぃっ、むむむ無理ぃぃ、これ無理いぃ!」
「ああ、そーかよ。生憎だが俺も無理だ」
「はああぁぁぁ!?〜〜〜っっっな、何が?無理って何が!?」
さあな、と澄ました顔でシラを切り、腕の中で往生際悪く暴れる女の冷えた肩口に口づける。
離せだと?ざっけんな。これをどうして離せたものか。
聞いただけで胸の奥がかぁっと熱くなるようなことを、たまらなく可愛い態度で言ってきたのはどこのどいつだ。
ここでお前を抱きしめずにいるほうが、至難の業ってもんじゃねえか。
「うっせえ叫ぶな。望み通りに撫でてやるからしばらく大人しくしてろ」
「〜〜〜〜っっっち、違うぅぅぅ!」
「あぁ?」
「ここじゃなくてっ、屯所で!〜〜〜っっみみみ、見られちゃうじゃないですかぁっ」
「お前目ぇ開いてんのか。前方百メートル向こうまで、人影一つ見えやしねえぞ」
「いるぅぅ!いますぅぅ!ぉおおおお店にっ、店員さんとお客さんがっっ」
「心配すんな。いるにはいるが、店の外なんざ誰も見ちゃいねえよ」
ガラス越しの店内に射るような視線を流した土方は、平然とした口調でうそぶいた。
実際には店の硝子越しにこちらを窺う店員と目が合っていたし、立ち読みしている雑誌の影からこちらを盗み見ている男とも、ばっちり目が合ったところだったが。
路上で公然と抱き合う警官二人に興味深々な野次馬どもを「見てんじゃねえ」と睨み返しながら、彼はの顎を片手に収める。
人目を気にしてあわてている彼女の目にコンビニの様子が映らないよう、熱を持った真っ赤な顔を、くい、と自分に引き寄せて。
「――おい。これでいいのか」
花のような甘い匂いを漂わせてくるやわらかな髪に指を差し入れ、中から梳くようにして撫でてやる。
びくんと揺れた頭の天辺にそうっと唇を押し付ければ、嗅覚を埋め尽くす甘ったるい髪の香りがいっそ息苦しいほどだ。
抱きしめ触れているところすべてから伝わってくるのは、の匂いや素肌の手触り、身体中を蕩かして浸食していくような温かさ。
今まではどんな女にも明け渡したことがなかった心の内側まで染み込み、何とも言えない心地良さで満たしてくれるそれらは、何度味わっても心地良すぎてきまりが悪い。
とはいえ――本気で惚れてしまった女のやわらかさや甘さを身体で知った今となっては、きまりの悪さなど二の次だ。
この甘ったるさに埋もれていられる幸せは、他の何にも代えがたい。
「夜中たぁいえ、往来でここまでさせられたんだ。今夜は褒美をはずんでもらわねえとな」
意地の悪い笑みを浮かべて囁けば、はびくりと肩を揺らし、困ったような顔で見上げてくる。
無言で彼を咎めている大きな瞳を塞ぐようにして、ほんの一瞬、睫毛の際に唇を落とす。するとは身を捩り、恥ずかしそうに顔を背けた。
「・・・土方さん、ずるい」
今にも消え入ってしまいそうなか弱い声が、吐息交じりに拗ねてくる。
言い出したのはそっちじゃねえか、と真っ赤に火照った女の頬を軽く抓った彼の背後で、自動ドアが音もなく開く。
人影もまばらな深夜の路上に、店内で流れる流行りの歌と人の気配が溢れ出す。
背中越しにまばゆい光を浴びせてくる店から「ありがとうございましたー」とやけに明るい声が響けば、の全身は途端にぎくっと竦み上がった。
彼の胸にあわてて飛びついて人目から逃れようとする恥ずかしがり屋を、くくっと声も無く笑った男は自分の隊服の上着で覆うようにして隠してやった。